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執筆者の写真上田聖子

MISENOMA Asks 金井学さん(アーティスト)

更新日:6月12日



近年、ホテル業界ではアートの導入が増え、宿泊ゲストへ特別な体験を提供するだけでなく、アーティストや地域の文化を支援する目的でも注目されています。

一方、アートと聞くと日常生活とはかけ離れた特別なもの、と感じる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?

本企画では、住まいの延長でもあるホテルにアートが入り込む可能性を探るべく、アーティストやその現場にいらっしゃるホテルの方々へお話をお伺いします。


今回のゲストは、アーティストの金井学さんです。2015年に論文「芸術を為すことを巡って 世界の記述形式ーそのトランスダクティブな生成について」にて東京芸術大学大学院で博士号を取得。2021年から2022年まで、文化庁新進芸術家海外研修制度の助成によるニューヨークでの調査期間を経て、2024年2月より、研修後初となる個展「真夜中を裏返して、昼の背中に縫いとめる」をホテル アンテルーム 京都(以下、アンテルーム京都)にて開催されました。


アンテルーム京都での個展開催のきっかけや、制作の背景にあるもの、また、鑑賞するという行為について。今回はMISENOMA代表の上田聖子を聞き手に、アンテルーム京都での公開インタビュー形式でお届けします。


 

金井学(アーティスト)

1983年東京生まれ。自由学園、情報科学芸術大学院大学を経て東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻(油画研究領域)修了。博士(美術)。近年の主な展覧会に「COSMOPOLITAN」(2020年、KIKA Gallery、京都)、「Outline」(2019年、マキファインアーツ、東京)、「行為の編纂」(2018年、トーキョーアーツアンドスペース本郷、東京)など。。

2015年にポーラ美術振興財団の助成を受けてメルボルン大学The Centre For Ideas客員研究員、2016年には西オーストラリア、2017にはモントリオールでのレジデンスプログラム参加、また2022年には文化庁新進芸術家海外研修制度研修員としてニューヨークでの調査研究など、国内外において異なる複数のディシプリナリティを横断しながら「芸術という営為」の生成の次元を探求している。

 

会場のアンテルーム京都は京都駅の南側、東九条に位置するホテル。築23年の学生寮を改修している(写真提供:ホテル アンテルーム 京都 Photo: Itsuhiro Osawa)



 

目次


  • アンテルームでの展覧会のきっかけ

  • 作品が語りかけてくれるもの

  • 芸術作品をひとつの言語として捉えてみる

  • ミニマリズムを取り巻く認識のズレ


 

アンテルームでの展覧会のきっかけ 


上田

(明日2月26日より)ギャラリー9.5で個展を開催される金井学さんにお越しいただきました。まず、こちらの会場は、京都の南側、東九条にある元・学生寮を改修したホテルです。ギャラリー併設のホテルとして2011年にオープンしました。当時、京都には、若手アーティストが作品を発表する場所が限られており、ホテルとして一助になれたらという想いから、年間約5~6回の企画展を開催し、アーティストの活動を紹介する展覧会やイベントなどを行っています。今回はインタビューを公開収録という形で行いますが、金井さんの展覧会についてのお話や作品の背景にあるものを紐解き、アートがホテル空間に入り込む可能性について、一緒に考えていけたらと思います。私は本展(金井学「真夜中を裏返して、昼の背中に縫いとめる」)のコーディネートを担当させていただいた、MISENOMAの上田と申します。本日はよろしくお願いします。


金井

アーティストの金井学です。今日はよろしくお願いします。


上田

目の前に素敵な飲み物がありますね。


金井

特別に作っていただきました。皆さんよろしければ。僕もいただいてます。


上田

今回は金井さんの作品に着想を得て、アンテルム・バーの熊崎なみなさんにオリジナルのカクテルを考案していただきました。ウイスキーがお好きと伺いましたが、(こちらも)ウイスキーベースですね。


金井

とても見た目もおしゃれで、味も美味しいです。どんどん飲んじゃってますけれど。


アンテルームバーが考案したウイスキーベースのカクテル「オールド・ファッションド」(写真提供:ホテル アンテルーム京都)


当日はオープニング・レセプションとして、ニューヨークの食文化をイメージしたケータリングがテーブルに並べられた。


上田

では、早速ですが、展覧会「真夜中を裏返して、昼の背中に縫いとめる」について、色々とお話を伺っていきたいと思います。まず、どういったきっかけで、アンテルームでの開催に至ったのか、教えていただけますか?


金井

きっかけは、僕の友人の宮坂直樹さんというアーティストがいまして。彼は今はフランスのパリ近郊に住んでいて、向こうをベースに活動しているんですが、かつて京都ベースに活動している時期があった。宮坂さんとは僕が博士課程をやっていた時に知り合って友人になり、もう10年以上友人としての付き合いです。この10年間ぐらい色々活動しながら、お互い苦労もあるよね、みたいな話をしてきました。2人とも日本の外でもアーティストとして仕事をしていて、その中で特に僕の方には日本の国内で作品を展示するのが難しい状況がありました。そんな中で、宮坂さんは僕の展示をどこかでやれないだろうかと考えてくださっていたみたいなんです。それがいつ頃からなのかは、ちょっとわからないんですけれど。そんなわけで、今回はアンテルームでの展覧会を企画してくださいました。


上田

宮坂さんの構想がご縁のはじまりだったのですね。京都での展覧会は、2020年に開催されたKIKA GALLERY以来ですね。


金井

京都では、そうですね。


上田

展示を振り返ると、そこから約3年。


金井

3年前、そうですね。


(手前2作品)<右手と左手の交換>(中央奥)<不確かさの再設計> KIKA Gallery(京都)での展示風景、制作年:2020


上田

今回はニューヨークでの研修後初めての展覧会とお聞きしています。色々と選択肢がある中で、アンテルームを選んでいただいた決め手は、何だったんですか?


金井

選んではいないんですよ。

選ぶっていうのは、つまり可能な選択肢が複数あるということじゃないですか。(今回は)複数の選択肢はないんですよね。 選んだという意味で言うと、やるかやらないかは選びました。やりますって。

僕はその時々で展示可能なものがあれば、いつでも(展示は)基本的には可能だと思っています。そんなわけで、今回はそういうセッティングを作っていただいたので、有り難く作品を置かせていただいている。


上田

今回は特に(ニューヨークでの)研修後、初めての展覧会でもありますが、展示作品は2023年から2024年の直近の作品が多いですね。まず、私が展覧会を拝見しての感想というか感じたことを、お伝えできたらと思っています。


「真夜中を裏返して、昼の背中に縫いとめる」展、ホテルアンテルーム京都、2024、展示風景


金井

どうですか?こんな感じのものっていかがでしょう?


上田

設営から立ち会わせていただいて、展覧会が出来上がるまでの2日間。作業を進めながら空間が出来上がる過程で(作品への)感じ方が変化して、自分でもすごい驚いてます。まず、作品だけが展開され、その後に、タイトルだったりキャプションなどの情報が追いかけて入ってきて。それらの情報を頼りに鑑賞を進めていくような体験でした。作品の感想としては、身体の断片と対峙しながら、立体物やそれらが写っている写真との関係性を眺めながら考えを巡らせました。キャプションには、展示作品は1つと明記されている、作品全体を見ようとした時に見えないとか・・。もどかしさも生まれました。これはどう表現していいかわからないんですが、新しいものに出会ったときの感覚がありました。


金井

すごい。なるほど。僕にとっては、ありがたい反応かもしれないですね。


上田 

作品が小さくばらけているので、全体像が見えづらいところも、1つの特徴としてあると思います。同じような構造を持っているものが複数展開しているので、自分の中の感覚を頼りにしながら、見ている体験でもあったなと。


金井

あー、なるほど。同じようなものが続いていくという感覚。もちろん全て同じ作品じゃないけれど、似たようなものが続いていく……要するに連続性みたいなものがあるっていう感じ?


上田

そうですね。質感だったり色味だったり、繰り返し自分の情報として目に飛び込んでくるものが、同じような規則性を持って繰り返されるので。(記憶を手繰り寄せて)想像しながら、でも、違うものに変換していくような体験でした。

同時に、普段自分が作品を見るときのことを考えると、すぐに写真を撮ったりして、意外とじっくりものを見てないという事にも気づいて。今回はそのことを教えてもらった気がしました。


作品が語りかけてくれるもの


金井

作品はそういうことを教えてくれるのかもしれないですね。

脱線しないように話そうと思っているんですが、今、すごく面白いなと思ったのは、普段、(上田さんが作品を見る時には)何を見ているんだろうって思ったんです。普段美術作品を見ていらっしゃるモードと、(今回は)ちょっと違うモードが必要なのかもしれないっていうことなのかなと、今のご感想を聞きながら思ったんですけれど。

何が違うのか。別に(普段作品を)見ていないということはないと思うんですが、他の作家の作品を見ている時には「これだ」と思って見ているものが、僕の作品には欠落している。 普段「ここがポイントだよ」と見ているところを、(僕の作品にも)当てはめようとするんだけど、そこが無い、ということなのかもしれない。

普段(作品を見る時には)何を見ていらっしゃいますか。


上田

例えば、絵画だったら、絵の中に描かれてる情景というか、現れているものから物語を読み解いたり、(作品の)タイトルから連想する物語を作って、想像しながら鑑賞しています。


金井

なるほど。それで、今回それをやろうとすると、そこが機能しない。


上田

はい。作品のタイトルには、日本語と英語と、別々の意味を示すタイトルが付けられていますね。日本語で意味を解こうとすると、それが詩のようなもので作品を読み解く鍵には、あまりならなくて。逆に、英語は、時間を扱っていることがわかります。作品のタイトルも、24時0分0秒から0時0分0秒・・。


金井

作品は、日本語でも英語も一応そういうタイトルになってます。でも、英語だとあんまり24時間表記をしないので、ああいう表記自体をするのかどうか……。 ネイティブの方にはちょっと変な感じの英語に見えるだろうなとは思っているんですけれど。

写真の方は、「ダイム・ア・ダンス」というタイトルをつけています。


上田

いずれも、時間や単位を表していますね。


金井

はい。ダイム・ア・ダンスは、昔のダンスの形式というか、これは割と性的な意味もあるんです。お金を払って、夜のダンスのパートナーをしてもらうタクシー・ダンスです。ダイム(10セント)で(ダンスの)時間が決まっているっていうことです。流行したダンスみたいなんですよね。


上田

いつぐらいに、流行したダンスなんですか?


金井

これは正確に言わないといけないので、あとで調べないといけないんですけれど、1930年代〜40年代ぐらいだったと思います(※正確には1920年代〜30年代に流行したタクシー・ダンス)が、録音されてる状況なので少し濁しておきます。


上田 

こういう表現が正しいかわからないですけど、お金とダンスという行為が繋がって出来たダイムは、1つの文化とも呼べるかもしれないですね。作品とも関係し合うので、これをどう読み解くべきなのか考えてしまいますね。


金井

そうですね、(とはいえ)そこまで意味も無いかもしれないですけれど。

あと、これは言ってしまって良いかな。「ダイム・ア・ダンス」というタイトル自体は、純粋に引用でもあるんです。マース・カニングハムのダンス作品にも「ダイム・ア・ダンス」という作品があります。1953年だったと思うんですけれど(これは割と正確だと思いますが)、そこからタイトルを拝借しているということもあります。

別にカニングハムが好きだから(拝借した)ということではなくて、僕が考えている問題がその中に含まれている。いずれにせよ、カニングハムのそのダンスのタイトルが面白いと思ったのは、ダイム・ア・ダンス=時間に限りのあるダンスということです。その意味でも、全部、時間に関わる問題を扱おうとしていると言っていい。

全部に共通してるのは時間(の問題)かな、と。展覧会のタイトルも日本語と英語で違うけれど、どちらも時間の話をしているというのはあるかもしれないですね。


上田

時間は、金井さんの作品を見る時に、意識せざるを得ない。むしろ意識してしまうものです。立体作品のタイトルは「24時00分0秒から0時0分0秒」ですが、そんな瞬間はあり得るのでしょうか。SFの世界のようでもあるし、作品は止まっているように見えています。


金井

そうなんですよ。全部止まってる。


上田 

止まっているように見えるんですけど、実際はそうではない。その逆説的なところも含めて考えさせられます。


《24時00分00秒から0時00分00秒まで》


《24時00分00秒から0時00分00秒まで》 個別の作品には同じ名前がつけられ、会場に点在していた。作品は手に触れ身につけることも出来る。(写真提供:ホテル アンテルーム 京都)


金井

確かにタイトルをつけたのは僕ですけれど…… あるいは、作品の形を作っているのは僕なんですけれど、それは僕の意思で決まっている部分もあるんですが、とはいえ、 その(タイトルや作品の)形がやってきてしまうっていうことが、もちろんあるんです。

これは誤解されないように説明しないといけないんですが、これは、何か、アーティスト的な特別なセンスで何かを掴んだ、インスピレーションが下りてきた、みたいな話をしてるわけでは一切ないです。

ある形が発見される瞬間があるということなんですよね。あるいは、言葉が(発見される瞬間がある)。先程の「タイトルが日本語と英語とで違う」というのも、それがどうしてかと言うと、その言葉が特定の差異を持っている、(そして言葉としての)作用を持っている場合に「翻訳ができない」ということがあるんです。今回のタイトルの場合は、特にそうです。日本語のタイトルが指し示しているものを、そのまま英語にしようとして、例えばネイティヴの人にそのフィーリングを伝えて言葉を一緒に探したとしても、もうその段階で壊れてしまうような概念を扱おうとしている。

そうであれば、全然別の言葉を使った方が良いだろうということで、全然違う言葉になってしまったんです。(全然違う言葉だけれど)意味しているところというか、指し示している領域=質として結構近い可能性があるということです。ただ、僕は英語がネイティヴではないから、どの程度近いかは実はわからないんですけれどね。

とはいえ、言葉を選んでいくっていうことは、割と作品を作るっていうことと同じようなことかもしれない。


芸術作品をひとつの言語として捉えてみる


上田

例えば、絵画を(言葉の)形式として置き換えることも出来るのでしょうか。絵画だったり彫刻だったり、 形式が違うものを考える時、(違う言語の)言葉を考える時と同じような違いっていうのはあると思われますか?


金井

それは、 例えば、絵画と彫刻の言葉が違うっていうことをおっしゃってますか?

その意味では、 僕は、まず絵画あるいは彫刻という領域(の自明性)を認めないっていう立場に立つので、それらがなぜ違うのかが僕にはわからない。だから、その意味では、絵画的に見えるものと彫刻的に見えるものが——つまり、この社会一般で制度的に絵画ないし彫刻と呼ばれているものが——実は同じ言葉で作られている場合もあるかもしれない。あるいは、同じ絵画と呼ばれる形式を持っているものが、 しかし全く違う言葉遣いで構成されているっていうこともあると思うんです。(より正確に言えば)言葉というより、日本語と英語のように違う言語で、構成されているということです。

つまり、ここで言ってる言葉というのは、絵画という既存の制度的にフォーマットとして規定されているものではなくて、ある1つの芸術作品に内在している、文法というか、言葉の仕組みとして考えた方がいいかなと思います。


上田

面白い視点です。金井さんは、芸術形式は一つの言語だという表現をされていますね。言語として捉えられている理由を伺えますか?


金井

最短距離で答えると「(言語の)例として(芸術形式を)捉えて、何がいけないの?」という答えになるんですけれど、それはちょっと意地悪に過ぎるので、そういう言い方をちょっと避けるとしましょう。

人間が何かものを作ったりしますよね。その中で、まず考えてしまうのは「美術作品を作る」ということ。芸術作品を作ることと、普通のものを作るっていうことと、何が違うのかを考えないといけないと思っていて。例えば、ご飯を作るとか、なにか物を置きたいけれど置く場所がないから、日曜大工でテーブルを作るとか。そういうことは、皆さんもやるわけじゃないですか。あるものは、ただの道具になり、日用品とか食事になったりするけれど、しかし、あるものは「芸術と呼ばれるもの」になる。それはなんなんだろう、みたいなことは考えたりするわけですね。本質的な違いがあるようにも思えるし、ないようにも思える。

とはいえ、まだ(芸術が)言語という話にはちょっと遠い。しかし、いずれにせよ、 僕は、芸術だけが言語だと言ってるわけではなくて、このテーブルとか椅子とかが1つの言葉の仕組みを持っている、つまり言語なんだという風に考えています。

もっとも、これは僕の独自の考えではなくて、完全に引用なんです。そういうことを言っている人がいるっていうことなんですよね。ベルナール・スティグレールという哲学者です。残念ながら、2年前ぐらいに亡くなってしまったのですが、彼が人間が作る道具とかについて話すとき、基本的には「それは記憶の支持体だ」という話をするんですね。

例えば、このグラス。今、僕の目の前には、グラスがあるんです。このグラスは特定の形を持っていて。この形があるということ、つまり、 例えばこのグラスが、直径が60センチとか70センチもあるようなものだと、もう掴めないし、重さが、例えば10キロ、20キロもあったら、人間が掴んで持ち上げて口に運ぶことは、到底できないサイズになるわけです。だから、ここにこういう形があるという必然性を考えた時に、(この形を持った)「これ」には、片手で私の身体がどういう風に関わったら良いか、その使い方の記憶が保存されている。

電化製品にはトリセツ(取り扱い説明書)がついてくるけれど、でも、トリセツがなくても、 なんとなくボタンを押して、こう動くというのが分かってくると、なんとなく使えるっていう……


上田 

(トリセツを)見なくても触っているうちになんとなく使えるようになる。


金井

探っていくと、いつかその使い方がわかるようになってきて。まあ、最後までわからないものもあるかもしれないけれど、「ある設計」をされたものは、もうすでにそれが、それとどういう風に関わるべきかというフォーマットを宿している。それをデザインした人、設計した人の設計の思想が、記憶としてこのオブジェクトの中に封印されている。だから、これをメモリーのサポート、記憶の支持体だというわけですね。「支持体」(という言葉)は、芸術でも使う言葉ですけれど。


上田

絵画ではキャンバスが支持体と呼ばれたりもしますね。


金井

「メモリーのサポート」が「支持体」なんだと考えた時に、文字、言葉における文字(の問題に突き当たる)。文字は(言葉にとっての)「記憶の支持体」でもある。声も、音声という意味では、音の振動というか、空気のバイブレーションなので、それもまた(言葉の)サポート(=支持体)ということもできる。

そういう意味では、何かマテリアライズ(物質化)された、身体の外に出ていった記憶が、定着したモノ(物質)のシステムという意味では、(人間が作り出したものは、道具であれ芸術であれ、言語として)一緒だという話になってくる。

従って「作られたもの」は言語であると捉えてもよい、という話を(スティグレールは)するんですね。

こう考えていった時に「美術作品を作る」というのも、同じように、新しい言葉を作ること、その(言葉の)指示対象、その言葉によって(のみ)記憶し得るものを、物質を使って作っていくということに近い。近いというか、そうだと言っても良いということになる。


上田

例えば、作品を鑑賞することにおいて、ハンドアウトやキャプションのような情報は、商品にとっての取り扱い説明書のようなものなのでしょうか。


金井

展覧会のハンドアウトみたいなものが?


上田 

はい。具体的な情報や見るべき順番を指し示したり、扱い方を教えてくれるものではありますね。金井さんの作品、展覧会に関しては、どういう位置付けなのか気になります。


金井

そういう意味では、ハンドアウトはない方が良いのかもしれない。

もちろん新しい言葉を勉強するのには辞書が必要だから、 少なくとも、単語帳みたいなもの、何かヒントになるものはあっても良いのかもしれない。けれど、英語のテキストブックを読んだだけでは英語が喋れるようにならないのと同じように、ハンドアウトをいくら読んだところで、作品が見られるようになるわけではない。


上田

自身のこれまでの鑑賞体験を振り返ると、具体的な情報を提示されることで理解したような気になるというか、鑑賞した気持ちになっていたことが、作品をしっかり見てないないという感覚に繋がっていたかもしれません。そこから一度、離れてみようと思います。


金井

そうです、大事なことですね。

これを言っていいのかあれはわかりませんけれど、個人的にすごく面白い……というか、疑問だなとも思うのは、例えば、先ほど上田さんがおっしゃっていた作品を見る時に、サブジェクト・マター(主題)というか、物語というか。要するに「作品の中に表現されているものを読み取る」と言った場合に、 例えば(ジョルジョ)モランディの絵とかを、みんなどうやって見ているんだろう、と。僕はすごく気になっているんですよね。

だってどの作品も、瓶みたいなものが並んでいるだけ。サブジェクトなんか全部同じじゃんっていうものが存在しているわけですよね。で、しかしそれが結構、名作とされている。

もっと有名なところに行くと、(ポール)セザンヌとか、サント・ヴィクトワール山を何枚書いているんだよ、みたいな話があるわけですよね。でも、サブジェクト・マター、つまりその中の物語を見るという話になると「山があります」しかないわけで。じゃあ(その絵を見るとき)一体何を見るべきなのかは、もうちょっとちゃんと考えた方がいい気がする。

山が何かに見えるとか、そういうことを言っても仕方がない。そこで物語を得ようとしても、そこには何もない。にも関わらず、(そういうような絵を)大量に生産しているアーティストがいる。では、そこでは何が問題になっているのかっていうことなんです。サブジェクトを追いかけても意味はないことは明白です。

(つまり)「何が描かれているか」ということも重要かもしれないけれど、同時に(というか場合によってはそれ以上に)、「どう描かれているのか」ということこそが、問題の中核をなす作品がある。そのことは、十分に理解された方がいいと僕は思っています。

花が1本ここにある、ということを、どう感覚し、どうその感覚を組織し直して、どういう風に芸術の形式の中に、その感覚しているものを組み立て直すかっていうことこそが、問われるべき中心的な課題としてあって、「その主題がなんであるか」は、それをどう感覚するか(という問題の経路)においてのみ、捉えられる対象として作り直されてる。そういうことが、あるんじゃないかと。

あんまりこういうこと言うと、なんだか変なこと言っていると思われることがあるんですけれど、ただ、実は芸術って——それがメインストリームだとか、正しい芸術の歴史だと言いたいわけでもないんですけれど、しかし——そういうことをやってる人が、かなりいたじゃないか、と。


ミニマリズムを取り巻く認識のズレ


上田

美術の歴史を振り返ると、描かれているものではなくて、その逆の何も描かれてないということを提唱し、取り組んだ作家がたくさんいると思うんです。代表例で言うと、ミニマリズムにあたるのかなと思います。広く知られているミニマリズムは、1960年代に始まった美術の運動で、過渡期を迎えてから収束し、ポスト・ミニマリズムや別の動きにも転換されていったと思います。

金井さんのニューヨークでの研修も、ミニマリズムからポストミニマリズムへの変換期に焦点を当てられていて、特に(自身の制作に)時間性を取り入れるためのリサーチでもあったと伺っています。その辺りのお話しを教えていただけますか?


金井

これもすごく具体的なというか、 かなり特定の話になるんですけれど、まずミニマリズムとはなんなのか、という話を一応しておきましょう。

これは、色々な定義がありますけれど、 少なくとも、今僕が考えているのは、アメリカの近代美術の中で言われていたミニマリズムというやつです。年代で言うと、まさに上田さんが、今おっしゃってくださったような年代のものです。

ここではすごく圧縮して話しますが、基本的には、その前に抽象表現主義というものがあった。その絵画において目指されていたことは、物語に奉仕する絵画でないということ、つまり何かをリプレゼンテーションする/表象する/表現する、という目的のための器として芸術があるということではなくて、芸術そのものが芸術そのものとして、それ自体として存在していること、そのまま自律している、ということが目指されていた。つまり「オートノマスであること」が中心的な問題として構成されていた。

で、ミニマリズムというのは、雑な定義をすると、その抽象表現主義の問題を最終的に引き受けた形で出てきた面があるわけです。例えば絵画で考えると、 何もないキャンバスに何かを描く、そうするとそれはもうイメージとして何かに見えるわけです。たとえそれが抽象的な形、丸や三角であったとしても、絵画としては四角い平面の中に三角形っていうイメージが描かれている、という話になるわけですね。「絵画は何かを表現するためのものじゃなくて自律しろ」という話を、そのまま極端にプッシュしていくと、 これ(丸や三角)ではもうダメで、それ自体で自律していけと。そうなってくると、イメージは描かない。描くわけにいかないけれど、何か描かないと何にもならないっていうことにもなっちゃう、みたいなことになる。 だから、表面を全部単色で塗るモノクロームや、オールオーバーみたいなペインティングが出てきたりもするし、苦肉の策のように、バーネット・ニューマンのジップのように線を1本だけ描く、というようなものも出てくる。

面白いのは、その絵画が(モノクロームやオールオーバーになって)「ここにはイメージは何もないですよ」と言っても、壁にかけられてある程度距離取られたら「四角のイメージ」になってしまう、ということ。だから、(その対策として)どんどん巨大化する。視野に収まらないくらいに巨大化して、 絵画でも建築空間と一致していくようなサイズになっていったりもする。マーク・ロスコのシーグラム絵画のように、部屋自体を構成するようなものとかも出てくる。

そして、その先にミニマリズムが現れるわけです。つまり、何もないが故に全てであり得るっていうような転倒というか、反転として、そういうものが出てくる。特に、僕が中心的にリサーチをしていたフランク・ステラという人が当時作ったブラック・ペインティングは、ストライプの反復が、その絵画の外形そのものと最終的に一致するので、つまり、(絵画平面の)中で描いているものの必然的な反復が、外側の枠自体のサイズを定義しているように見える。中のイメージとその外形、相互が同時に(弁証法的に)規定し合ってるっていう関係を作る、ということです。要するに、そこに循環論法みたいなものを作るわけですね。それによって、抽象表現主義が目指していた理想を、ある種リテラルに、文字通り実現したように見える。

長くなっちゃうんですけれど、要するにミニマリズムって「何もないことによって、全てがありうる」、可能性のみがそこに提示されるっていうところがあるんですね。キャンバスは、従って、何かが描かれる前の潜在性が可能性を担保する状態で自律性が維持されている。

しかし、これがリテラリズムだとして批判される時期がその後やってくる——これを言ったのはマイケル・フリードですけれど。

僕が興味を持っていたのは、しかし、(ロバート)ラウシェンバーグの真っ白な絵画(ホワイト・ペインテイング)のような作品、つまりイメージの到来を待っていること、その可能態=デュナミスみたいなもの——全てを待ち受けているという構造によって、 疑似的に「超越的に全てがありうる」ことにするという、その戦略(の様なもの)の問題です。

(そしてその上で、さらに)考えていくと、そのミニマリズムの後にやってくる(ミニマリズムと正反対の方向性を持つとされる)ポスト・ミニマリズムは、実は同じ(ミニマリズムの)作家がやっていた、というケースが少なくない。(着ているTシャツを示しながら)今、着ているのはフランク・ステラのものです。これは絵画の内型と外型が一致している作品ですけれど……


上田

(金井さんが着ているTシャツを指して)その作品は、あの四角いキャンバスの作品の後ですか?


金井

後ですね。もうこの時は、ジェイプト・キャンバス、 (イメージの)反復に合わせて、キャンバス自体をカットしちゃう、という作り方になっている。

しかし、こういうことをやっていた人が、その後、全然違う作品を作り始めるんです。 普通に考えると理屈としては通らないはずなんですよね。

それがなぜなのかと考えると、ミニマリズムにおいて考えられていた問題は、おそらく、さっき僕が長々と説明しちゃったようなことだけでは、実はなかったんじゃないか、と。

要するに、疑似的に何もない、あるいは強制的な循環論法を作ることで、中身が外側を規定し、同時に外側も中身を規定する、そこに一切他のものが入り込む余地がないこと(紋切り型のミニマリズムの理解)を目指していた、ということだけでは、実はないんじゃないかって。

そう考えないと、その後の展開が理解できない。



上田

(何も描かれていないような)白いキャンバスに何かを見出したり、ある一定の規則性を持って描かれたものに関して、奥行きを感じたりするのは、視覚的なイリュージョンを観客が自ら作っているのかもしれません。

お時間も迫ってきていますが、身近なことと視点を繋げると、ミニマリズムと京都は江戸時代から続く(思想や)美意識が共通していると感じます。それが、ワビ・サビのように様式として建築に取り込まれて、言語としても(世界)共通言語のように認識されているものもあります。その点から、ミニマリズムと京都の親和性を感じている一方で、無駄を一切削ぎ落としたスタイルが(ファッションとして)ミニマリズムとして語られているという現状もあると感じています。ミニマリズムというひとつの芸術運動が、美術だけではなく、デザインや 建築、音楽にも広く適用されている、「あの人、ミニマリストだよね」という(生活のスタイルや)生き方にまで発展して現代にまで続いているのは、珍しいなと思っています。金井さんはどういう風に感じられますか?


金井

誤解がないように言わなきゃなとは思うんですけれど。

ミニマリズムと言われているもの、つまり先ほど僕が話したのは美術の領域で言われているミニマリズム。それが実は正しく理解されていないんじゃないか。つまり、ミニマリズムが 本来問題にしようとしていたことが、十分に理解されていないんじゃないかっていうのが僕の問題意識。 そして、そこにこそミニマリズムの可能性が残されている、とも考えている。

そういうことも踏まえて言うと、今、ファッションとか暮らし向きも含めて、ミニマルと言われているものと、 美術の世界で問題にしているミニマルは、ほとんど関係ない概念なのかもしれないと思います。ワビ・サビと通底する部分、(つまり)ワサ・サビとミニマリズムが一緒かどうか、というのも、 ちょっと僕は違うかもなと思っている。

ただ、ワビとかサビとかっていうよりも、アイデアで言うと、虚とか無とか、あるいは、間とかですね。間の概念は確かにミニマリズムが問題にしようとしていた、要するに超越性をどう処理するかっていう問題に抵触してくるとは思うので、 近い系列だろうなと思う。 これは空間の問題だから、茶の湯の世界というか、茶室とかの問題でもあると思うんですが。

間というのは言葉の境界の様なこと、詩の世界であればそう言えるかもしれないし、東洋的な美学の中では余白の問題として扱われることもあるとは思うんですけれど。

(いずれにせよ、間は)そこにある種の無限性を読み込む装置として使われる可能性があるという意味では、さっき言っていたような(ミニマリズムが)超越性を読み込むための装置として構成されるというのと、比較的近い問題を持っている(とも言えるかもしれない)。

これ問い返すと、仮にそういうものが——つまり、その無限性としてのミニマルがあって——それを引き受けた時に、しかし「それを永久に見続けられない私たち」がいるという問題が出てくる。それを見ている時間に終わりが来てしまうから「私がそれ(無限のもの)を見ていられる時間は有限だ」という問題が今度出てきちゃって。

無限なものを宿してくれるものがあったとして、それを無限に見続けることはできないという問題。無限にワビ・サビを味わい尽くすことができないという問題。

そうなってきた時に、時間のことを考えなきゃいけないな、と。それを考えていると、今回のようなタイトルが出てきてしまうことになる。


上田

本日のお話と、個人的にも関心を持っている「間」の概念が繋がって、もっとお話を深めたいところですが、ここでお時間が来てしまいました。本日お話をいただいた内容は、MISENOMAの公式サイトにてご紹介予定です。金井さん、本日はお越しいただき、ありがとうございました。


金井

ありがとうございました。


《ダイム・ア・ダンス》(写真奥)《24時00分00秒から0時00分00秒まで》 (写真手前)


今回インタビューを通して、金井さんの思考の深さを知るとともに、普段作品を見ようとするとき、時間の制約のなかで足早に見ることが多く、作品との関係性を築くためには余白が必要だと気づかされました。住まいの延長であり、非日常空間でもあるホテル。24時間365日、人とモノが交差する空間で生まれる鑑賞の可能性について、インタビューを継続しながら考察していきたいと思います。

(本インタビューの続編は、4月6日に収録を予定しています。)





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