2024年2月26日から4月5日までの期間、文化庁新進芸術家海外研修制度の助成によるニューヨークでの調査後、国内初となる個展「真夜中を裏返して、昼の背中に縫いとめる」をホテル アンテルーム 京都(以下、アンテルーム)で開催されたアーティストの金井学さん。
本展のクロージングを兼ね4月6日に催されたイベントでは、金井さんによる即興制作と2月26日収録のインタビューの続編を実施し、制作のアプローチを観察しながら作品との繋がりやホテルが持つ環境を考察し、お話を伺いました。
金井 学(かない・まなぶ)
1983年東京生まれ。自由学園、情報科学芸術大学院大学を経て東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻(油画研究領域)修了。博士(美術)。近年の主な展覧会に「COSMOPOLITAN」(2020年、KIKA Gallery、京都)、「Outline」(2019年、マキファインアーツ、東京)、「行為の編纂」(2018年、トーキョーアーツアンドスペース本郷、東京)など。
2015年にポーラ美術振興財団の助成を受けてメルボルン大学The Centre For Ideas客員研究員、2016年には西オーストラリア、2017にはモントリオールでのレジデンスプログラム参加、また2022年には文化庁新進芸術家海外研修制度研修員としてニューヨークでの調査研究など、国内外において異なる複数のディシプリナリティを横断しながら「芸術という営為」の生成の次元を探求している。
アンテルーム バーの空間にあるモノを即興的に組み合わせていく金井さん。板材が支持体となり「彫刻でも台座でもない微妙な領域」が立ち上がってくる。(写真提供:ホテル アンテルーム 京都)
バーに日常的にある素材(ここでは瓶の蓋)を使用し、裏返して吊るしたり、袋に入れたり、同じものが繰り返し違う形で登場する様子は、展覧会を彷彿とさせるものがある。(写真提供:ホテル アンテルーム 京都)
目次
イメージを平均化し、主従関係の綱引きをする
ホテルの時間、アンテルームの25時
作品の価値を決めるもの
イメージを平均化し、主従関係の綱引きをする
-即興制作を拝見して、平面と立体のどちらともつかない構造や意味を完全に理解することはできませんでしたが、ロバート・ラウシェンバーグの扱う領域にも接近したような気がしました。制作行為を生で体験することはすごく意義深いと感じました。
金井:今おっしゃってくださったことは、もしかしたら結構大事なことかもしれません。僕は今、即興で制作(のようなこと)をしているわけですが、もちろんラウシェンバーグを考えながら作っているわけではありません。ただラウシェンバーグを引き合いに出すことで言えることがあるかもしれません。先ほどこれを作りながら、これらのモノを上から見下ろす視点について少し話しました。
上から見下ろすことで見えてくるのは、このいくつかのモノが重力から切り離されて移動することが可能な状態として見る、ということです。ラウシェンバーグの作品について、かの有名なフラットベッドや垂直性といった話を繰り返す必要はないかもしれませんが、その効用と必要性を考えると、やはりイメージの間にあるヒエラルキーのレベリング=平均化ということが重要なんだと思うんですね。要するに作品が複数のイメージから構成されているとして、しかしその中には中心となるイメージがあり、そしてそのイメージが最も重要なものとして作品のメッセージになり、それ以外が補助的な役割を担ってメッセージを強化する、という構造にならないようにしている、ということです。作品はメッセージのためのステージではない。地と図が分たれていないんです。複数のイメージが、相互の緊張状態をイーブン(五分五分)な状態として構成している。だから作品の中心性が相対的にしか設定できず、ラウシェンバーグの作品では見る/経験するという時間が錯綜する。
さて、実は僕がここで遊びのようにやっていることも似たようなことを(もちろん遊びのようなレベルではありますが)目指しているのだと言えるかもしれません。例えば、今ここで扱っているモノはバーカウンター周辺にあった様々なモノなので、抽象的なオブジェクトはありません。何らかの用途があるモノやその断片です。だから、今僕が制作のようなものとして何をやっているのかと聞かれれば、少なくとも試みているのは、あるモノが何であるかが、別のモノによって支えられることで決定されるような関係性を作ることだ、と言えるのかもしれません。もちろん、その支えている側のモノに焦点を当てて見るのであれば、 それもまた他のモノによって何ものであるかが規定される。例えばあるモノは、他のモノをミミック(真似)しているような形で隣のモノに沿って置かれているけれど、その隣ではそのモノとモノの力学的関係が、さらに別のモノの配置のされ方を規定している。そうすることで、どちらが主でどちらが従かという主従関係が、お互いが綱引きをしていて決められないというような状態を作っているということです。
-以前から、金井さんがどのように日常のモノを観察して、 その情報を扱い、形を決定して組織していくというかということに興味がありました。今回の即興制作を通して、金井さんの作品を理解する手助けを得るだけでなく、他の作家が扱っていた問題を示唆する可能性もあると考えています。
金井:そう言っていただけるのはとてもありがたいことなのですが、しかしひねくれた答え方をすると、色々とお話しすることが作品を理解する助けにならないように、僕はまたずらして話していかなきゃいけないという思いもあるんですよね。今、ここで作品を作るような行為をしていますが、それがある理解の助けになるということになると、この行為がその理解するという目的に従属していくことになる、そういうことがここに生じてしまうわけですよね。今僕がやっていることが、僕の制作や作品をある理解のもとに束ねていく行為になってしまいそうならば、もっと物事をわかりにくくするために何ができるか、ということこそを考えないといけない。
-前回のインタビューでは、作品の解説は必ずしも必要ではなく、解説を読むことと作品を理解することは別物だと仰っていました。私は、作品を鑑賞するうえで、身体が感覚する体験が重要だと考えています。この点から、生活の延長にあるホテルという空間でどのような鑑賞体験が提供出来るのか、一緒に考えていきたいと思っています。
金井:そうですね。これは前にも少しお話しさせていただいたことでもあるんですが、ホテルというコンテクストを考えた時に、ここでずっと生活するわけではないけれど、しかし宿泊する中で、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、寝たりという時間がありますよね。その中に作品がある。「普通の人」という言い方はあまり好きではないですけれど、美術作品を自分で作らない人、あるいは美術作品を買ったりしない人は、作品と生活に沿った形で時間を過ごすことは少ないと思います。多くの場合は美術館とかギャラリーとか、そういう場所でのみ美術作品と過ごす時間を持つわけですよね。 ご飯を食べたりお風呂から入ったりすることと地続きで作品を見ることはあまりない。これは作品を作っている側からすると特殊だとも言えるわけです。僕の場合で言えば、少なくとも自分が作っている作品が常に自分の生活空間の中にあるし、友達や知り合いの作品も常に生活空間の中にある。というか、作家にとって日々の生活をするということは、そういう時間を過ごすことだ、ということです。
さらに言えば、その時間の中には、作品になる前のモノと過ごす時間というのもある。このインタビューの前編のところで、僕自身の立場についてお話しした時に、僕は彫刻とか絵画といった既存の美術ジャンルを前提にする立場を取らない、とお話ししました。つまり芸術作品を作るということが、例えばキャンバスを貼るということや、ブロンズを流すということ、そういったモノや行為とセットになるという発想を持っていない。ということは、逆にいうとあらゆるモノや行為が芸術作品になる可能性があるものとして、目の前にあるということでもあるんです。先ほど僕にとっての日常生活には、作品になる前のモノと過ごす時間が含まれると言いました。そしてその美術未満のものが、あらゆるモノや行為だとやこうだと言っているわけです。だから道をただ散歩してる時にも、ふと目にしたモノについて「これは芸術になるのでは?」というような時間を過ごしている、そういうことになるわけです。作家は、そのような作品未満のモノ、あるいはそこから「作品と呼んでもいいだろうな」というステータスを獲得したモノたちと長い時間を過ごしている。ある経験の領域の中に事物が芸術として発生してくる、生成してくる、そういう時間です。作品を作るにせよ、作品を鑑賞するにせよ、芸術というものの興奮の核心はその時間の中にこそあると思います。
このように考えると、こういうホテルという「その中で生活する」という空間の中で、芸術作品と長い時間を過ごす(もちろん1泊や2泊というような限られた時間ではありますが)ことは、美術館やギャラリーで完成された作品を一時的に見ることと違って、ただの事物が芸術作品としての経験を立ち上げるプロセスを持つという時間を共に過ごすことを可能にするのかもしれません。宿泊ということには、そのような強みがあるように思います。
-ホテルにアートが入り込むことで生まれる可能性や、鑑賞者に提供出来る体験について考えた時、宿泊施設とギャラリーでは来訪者の目的が異なることが、アートホテルでは重要だと考えています。
金井:確かに偶然性というか、事故的に出会う面白さもありますね。時には、見たくないものや好みじゃないものに出会うこともあるでしょう。また時にはドンピシャで好きなものに出会うこともある。そのような偶然性ですね。名前も知らないアーティストだけれどすごく良いというような出会いが起きることもあるかもしれません。通常では、多くの人は自分が好きなアーティストの展覧会に行こうと思うはずなので、ホテルでの展示には、それとは違う偶然の出会いという面白さもあるのかもしれませんね。
もちろんそのような可能性もホテルというコンテクストに芸術作品が置かれることの面白さだと思いますが、ただ、繰り返しになりますが、先ほどの作品未満から芸術の経験が立ち上がるという時間を一緒に過ごせるかもしれないということの重要さは、やはりあるように思います。今話しながら少し思ったのは、ギャラリーとか美術館という場だと一般的に作品を見るということが主目的になりやすいですよね。完成された作品があって、それを見る、それを経験する、ということです。でもアーティストの側からすれば、当たり前ですが圧倒的に比重が置かれた問題は「つくること」なんですよね。もちろん「作る」という行為は、最終的に美術や芸術の作品というものに最終的に行き着くわけですが、でも一番面白いところは、その作品の中に結晶化されている「作っていくプロセス」にあるんです。芸術作品を単に完成品として見る、成果物として見るだけでは、このプロセスを見落とすことになります。作品を経験することの核心は、そのような作品という成果物が結果として発する効果を単に受け取るということではなく、この作品という事物を作るというプロセスがどのように設計され組織されたのか、そこを素行的にトレースしていくことにこそある。
そのような経験はかなり時間を必要とする。もしかするとアーティストがその作品を作っていた時と同じくらい時間を必要とする場合もあるかもしれません。実際にアーティストが作品を作っているプロセスは様々な形があると思いますが、僕の場合はラジオを聞きながら作ったりしますし、制作も1日で終わるわけではありません。 途中で今日は疲れたからここまでにしよう、ということでご飯を食べることもあれば、何だかうまくいかないから風呂に入って寝ちゃおう、ということも当然ある。そして翌日起きて、「ん?なんか昨日とは違うな?」と言ってまた作る行為が始まる。制作するというプロセス=制作の判断というものはそういう中で設計され、形作られるんです。制作という行為は、こんな感じで日常の自分が 暮らしているということの中にあって、身の回りの事物がある時に特定の経験を与えるものとして現れて、それに対してリアクションを返し、それによって何らかの形象が現れる……その繰り返しの中で、ある時にある形式を持った作品のようなものが必然的にできてくる瞬間がある。その瞬間のダイナミクスみたいなものが、作品の中に定着してくれたら嬉しいですね。
ホテルの時間、アンテルームの25時
-作品をつくるプロセスには、駆け引きや掛け合いがあり、緊張関係のなかで時間をかけて繰り返されるということがわかりました。(前回のインタビューでは)作品が無限の可能性を持ちつつも、時間の制約を受けることを問題視されていていましたが、ホテルにも独自の時間の概念や規制があり、両者の共通点が時間だと考えています。
金井: 前回時間の問題についてミニマリズムなども引き合いに出しながら少しお話ししましたが、しかし問題設定は良いとして、じゃあそれをどう扱うのか、という点は残っています。正直なところその答えを持ち合わせているわけではありません。しかし、上田さんが仰ったことはもしかしたら結構議論の本質に関わることなのかもしれません。つまり1日は24時間だということになっているけれど、便宜的に24時間なわけで、人間がその24時間に従って生きていくかどうかはまた別問題なわけですよね。
例えばホテルだと夜中もフロントで働いていらっしゃる方がいる。あるいはお客さんがチェックアウトする時間に合わせて清掃して……というように、ホテルという仕事の動き方があるわけですね。それは必ずしも24時間というクロックが基準になるものではないはずです。ホテルの仕事に準拠した時間軸を基準にすれば、24時間の時間的秩序において、今という時間がどこに属しているかわからない、ということも起きるはずです。ホテルはホテルという別の時間を作っていると言えるのかもしれません。
- ホテルのシステムは当日の25時に切り替わりますが、それは翌日の深夜1時を同時に指しています。これは金井さんが扱う言語の定義による時間のズレとも重なり、ホテルとの共通点だと感じています。
金井: そうですね、時間の問題も言葉の問題と関わると考えて見ることもできます。 時間というものもまた、 言葉によって構成されていると考えてみるということです。ここでいう言葉/言語というものは、バーバルな言葉に限定されない、認識を支える構造のことです。つまり、最初から実体的な時間があるわけではない。時間というものをどういうものとして設定するかという言語的構造が、「今」という時間がどこに所属するかも決めるということです。例えば、先ほどの24時を過ぎた後の1時間。通常は今日ではなく明日に属す時間です。しかし、その時間はアンテルームで仕事をする人たちの言語体系においては、まだ今日に属してるわけですよね。つまり時間というものは、あるいは「今」という時間は、それをどのように位置付けるかというシステムによって、「書き換えが可能な言語的構造」として構成されているということです。
さて、ここから前回の時間の問題に繋げて考えてみたい。問題にしていたのは例えばミニマリズムの芸術作品が発生させる無限的な時間、経験の時間でした。汲み尽くせない無限性の現れを持った何かがあったとして、しかし現実問題として私たちが文字通り無限に、そのモノを見続けることはできないから、どうしたら良いだろうかという問題です。ここで先ほどの「書き換え可能な言語的構造」としての時間、というものが効いてくるように思うんですね。つまりさっき言ったように、アンテルームで仕事をするという仕組みが「今」という時間の位置付けを書き換えることができるのであれば、同じように、無限性を引き受けられるように「今」を再構成することはできないだろうか。単線的な時間/直線的に進んでいく時間に属している限りは、無限性を引き受けることができない。それはそうだと思います。そのような時間において無限とは、その無限に伸びていく直線に永久に付き合うということでしかない。でも、時間をノンリニアで重層的なものとして捉えるならば、「今」という時間の中に無限を畳み込むことができるのかもしれません。もちろんアンテルームの25時はあくまで単線的な時間における「今」の所属を、今日と明日という枠組みの中で再構成しているだけに過ぎないので、複数的な時間軸概念の中で「今」を再構成しているわけではありません。しかし繰り返せば、重要なのは再構成できるかもしれない、という着想をもたらすところです。「今、私が見ている」という「この時間」が終わらないっていう特殊な時間性を、作品の言語によって生成することもできる可能性がある、と言えるかもしれない。逆に言えば、 作っている作品というものが、それが受容される特殊な時間を組織するものとしてある、そのように存在し得るものを作る必要があるということです。
-今回の展覧会「真夜中を裏返して、昼の背中に縫いとめる」では、Would Time Machine take Time?と英題がつき、言葉による2重の意味を持たせていましたね。
金井: 作品や展覧会にタイトルをつける時、つまり言葉そのものを直接扱う時に特に面白いと思うのは、作品とは違って、多くの人が言葉が意味していることを自分はわかっていると思っているということです。言葉で書いてあることはみんなわかった気になっている。少なくとも美術作品のような造形的なものと比べればそう思っているわけですよね。でも、実はそんなことないんじゃないでしょうか。先ほどのホテルの時間だってそうです。25時と言われた時、それは今日なんでしょうか、明日なんでしょうか。あるいは、深夜0時を真立った時に「明日、何時に起きる?」といった時、その「明日」ははたしていつなんでしょうか?「言葉で書いてあるから分かる」とみんなが思っている、その言葉の内側にもすでに、言葉自体を宙吊りにしてしまうような、その言葉の内側に位置づけられない謎の概念みたいなものが組み込まれているように思うんですよね。 言葉の内側には、もうすでにその言葉が自らを突き崩してしまうような割れ目のようなものが内包されている。むしろ、みんなが言葉で書かれているものは理解できると思っている、あるいは言葉が事実上機能しているという事実は、このような言葉の割れ目を忘却することで可能となっているはずです。
これは事物の存在を名指すという、すごく単純なレベルでもそうですよね。例えば、ここにいる僕という存在は「金井」と呼ばれている。でも細胞レベルで言えば、今もまさに作り変えられている状態にあるはずです。代謝もしているわけですし、骨や皮膚といった細胞も、何か月〜何年で全部入れ替わるという話もあるじゃないですか。 「僕」という存在の物質的なレベルでも、そういうことが言えるわけですよね。その意味で「これは金井学です」という言葉が本当は何を意味しているか、これは難問です。1年後に会って、物質的には全く違うものになっている存在を、それでも同じ名前で呼んだりする。よく考えればおかしな話です。これは固有名だけではない、概念だってそうです。椅子を指さして「これは椅子です」というけれど、「椅子」には色々な形がありますよね。色や形が違ったって、あれもこれも、みんな「椅子」なわけですよ。とはいえ、どう見たって「1つ目の椅子と2つ目の椅子は違うじゃん」ということも言える。だから「椅子」のような一つの概念が現実的に機能している、言葉のシステムとして成り立っているという事は、そのようなツッコミを忘却することが可能にしている。声だってそうですね。誰かの名前を呼ぶ声も、厳密にいえば全て違う音声が喉から発せられている。毎回違う声が発されているにもかかわらず、その違いは覆い隠され、あるいは見ないことにすることで「名前を呼ぶ」という行為が成り立っているわけですよ。このように考えると「時間」というような対象は、時計とかをチラッと見る限りでは矛盾なく作動しているように見えるかもしれないけれど、実際のところ何が何だか本当はよくわからない、謎の割れ目を大量に抱き抱えているようなものです。だから、僕がモノとしての作品を作ろうとしている時や、言葉を材料にしてタイトルなどを作ろうとしている時に試みているのは、そういった割れ目に侵入して、内側からその素材自体が自らのあり方からずれていってしまいそうなところを探し、そこに手を突っ込んで操作していくようなことと言えるのかもしれないですね。
-言葉によるギャップを自らつくり、その割れ目から同質ではないものが生まれてくる感じですか?
金井: その通りです。言葉を素材にしてタイトルを作るにせよ、モノを素材にして作品を作るにせよ、そのような操作を行うのは同じです。だから、作品よりもタイトルが先に作られることもあるんです。 実際に僕の場合はタイトルのストックがあります。今はストックが2つありますね。言葉を操作することで作られた変な言葉がタイトル候補としてストックされていて、似た構造を持つモノとしての作品を待っているような状態です。
-作品とタイトルがお互いに関係し合うものかどうかは、タイトルをつけた時点ではわからないという感じでしょうか。「無題」やナンバリングのように、作品にタイトルをつけないものもありますが、鑑賞者にとっては、作品との関係性は見出しづらく、難解に映ります。
金井: 実を言えば、僕も過去に作った作品には、ナンバリングしただけのものや、アンタイトルド(無題)のものもあるんです。ある時期から作品にタイトルをつけるようになりました。もっとも、鑑賞者が理解しやすいような作品とタイトルの関係性といったことは考えていません。言葉を素材として作ったタイトルのストックと、出来上がった作品をペアリングしているだけなんです。言葉と作品に意味的な繋がり、象徴的な対応関係があるわけではありません。
先ほど言ったように、言葉の中の割れ目のようなものを探して、そこから言葉を操作する、そして言葉が自らの意味からずれていってしまうような、変な言葉をタイトルとして作るんです。その時の操作の仕方と、事物としての作品を作る時に行った操作の仕方が似ているものをカップリングさせているだけです。
作品の価値を決めるもの
-作品を鑑賞する環境が作品の価値を規定するとしたら、美術館やギャラリーなどはその価値づけに影響していると思いますか?
金井: まず価値とは何か、ということを考えないといけないですよね。ここで言う価値が、芸術作品というものの存在論的な価値を意味しているのだとすると、アーティストが作った事物が存在している時点で価値があることになり、従って美術館もギャラリーも関係ありません。一方で社会的な価値、つまり経済的な価値とか他者とコミュニケーション可能な交換価値という意味では、美術館やギャラリーにも意味はあると言えるんでしょう。ただ僕自身は全く興味がありません。交換可能な価値であれば、芸術以外にもっと交換効率の良いものが沢山ありますからね。だから、芸術に関して言えば、前者の存在論的な価値にしか興味はないです。これは本当に交換不可能なものです。禅問答のような言い方になってしまって申し訳ないんですが、「価値にならない」ことが「価値」なんだと思うんですよ。つまり、社会的に承認される交換が可能な「価値」にはなり得ないということにこそ、芸術の価値があるということです。そのような芸術の価値は、ある対象とそれを経験する私との間にだけ生成するもので、決して他者化できない価値です。他人に伝えることも、合理的に説明することも不可能な経験としてある。そしてそれを価値あるモノとして引き受ける、という行為を伴うもののはずです。このように言うと、とても原理主義的な芸術至上主義みたいに思われることが多いんですが、そうではなくて、一人の人間が一回限りの生を生きているって言うことのすごく基本的な話だと思います。生きるって、そういうことでしょ、と。
交換不可能な出来事の価値は、例えば、友達と同じ学校に行って同じ先生の授業受ける、みたいなことを考えたら分かりやすいかもしれません。そのように過ごしたとしても、全員が同じ考え方になるわけじゃないですよね。むしろそこから皆、バラバラの生涯を送ることになる。
もちろん学校や先生の影響で、好きなモノだとか物の考え方と言ったものが、特定集団においてある傾向を持つ場合もあるからそれほどバラバラではない、という面もあるでしょう。あるいは、家庭環境のような学校や先生との関係以外の環境が違うので、それらがそれぞれのバラバラな傾向を作り出していると考えることもできるでしょう。
でも今僕が言っているのは、そのようなことではなく、例えばあるたった一つの出来事、例えば担任の先生が発した一言が、もちろんクラスのみんなもその一言を聞くという経験しているにも関わらず、その人たった一人だけにとって人生をガラッと変えてしまうような特別な出来事として到来することがあるということです。周りの人にとってはなんでもないことが、その時のその人にとってはそうではない。当然、当人にとっても予測ができるものでもないし、同じ体験をその後に再び経験したとして2度目も同じように感じるかはわからない。ある時、ある瞬間、ある経験がその人に決定的な出来事として到来するということは、そういうことだと思います。多くの人にとって、こういう経験は大なり小なりありますよね。僕が言っている交換不可能/通訳不可能な価値とはそういうもので、そのように説明すれば決して分かりにくいものではないのではないかと思いますそして、こういう出来事が到来してしまったせいで、ある人は絶対食ってはいけないとわかっていながらアーティストになり(笑)、またある人は上田さんのようにキュレーションをやろうとか思ってしまうわけです。自分にとって「ある仕事」が、自分が生きる時間を賭けてでもやるべき仕事なのだと思ってしまう瞬間がやってくる、そう思わせてしまう力が価値なんだと思います。
事前に予測したり、他者と交換したりすることができない価値。事後的に措定されるしかない価値と言っても良い。芸術の価値は、おそらくそういうことなんじゃないでしょうか。
僕自身、作品を作り出すプロセスの中で経験している価値についての説明できなさということは強い実感としてあります。制作において何をどのように作っているのかということは全て説明できます。しかしそこで生じる経験については、作品や作品を経験するという時間や行為の中にしか存在しないんですね。それを別の形で一般化して説明するということはできません。
-金井さんの言葉を借りると、アートの周辺やアーティストを支える環境を作ることも、「芸術としての営為」に繋がるのではないか、と考えています。
金井: そうかもしれないですね。僕は営為という言葉を使うことが多いのですが、それは僕が言っている芸術が、いわゆる世の中で「アート」とか呼ばれている領域に限定されるものではないからです。つまり周辺や環境という意味で言えば、交換可能な価値を生成するような営為は芸術であり得る可能性を備えるのかもしれないということです。だからアートの周辺や、アーティストを支える環境も、芸術としての営為に繋がる可能性は当然あり得ると思います。
もっとも、それが交換可能な価値に回収される水準にとどまる営為であれば、いかに「アート」に近しい位置にあろうが、芸術とは微塵の関係もない行為に過ぎないことになる、ということでもありますが。
-芸術作品が言語に近い構造を持っていることを示唆されていますが、金井さん自身の身体も素材や道具のように使われていますね。
金井:これも、あまりいたずらに話が広がらないように言わないといけないと思っていますが、まず繰り返しになりますけれど、絵画とか彫刻というジャンルが芸術であると考えることの自明性を僕は否定しています。だから色々なモノを「芸術になる可能性があるもの」と見なしているわけですね。例えば、こういうゴミみたいなものであっても、芸術作品になる可能性をもしかしたら宿しているかもしれない。そしてそのモノが新たな言語を生成する形式に至ることができれば、つまりそれが新しい言語として自分に到来するという交換不可能な価値を持つ出来事としてやってくるのならば、それはまぎれもなく芸術であるわけです。
こう考えると、身の回りにあるさまざまなものは全て芸術と言うものの素材や、それを作り出す道具になる。いわゆる世の中で「アート」とか言われているものに近いか近くないかと言うことに一切かかわらず、そう考えられ得る。僕はそういう立場をとっています。
この前提の上で、ところで、私と言う存在が、どこに行っても、例えば身の回りに何もない空間に行って、服も着ないで裸になったとしても、それでもそこに存在する身の回りのモノとはなんだろう、と考えた時、何があると思いますか?
-自分の身体?
金井:そうなんです、僕もそう考えました。裸になったとしても、何も身の回りになくなった時、私という存在の周りにそれでも残されるものは、(SFのように、脳だけ取り出して意識だけインターネットにアップロードする、みたいな時代になれば違うのかもしれませんが、そうでない限り)私の身体である。あるいは、ここまで極端に「何もない場所」を考えなくても、少なくとも身の回りに何かモノがあってそれを操作している時、よく見てみれば、実のところ自分自身の手や足が、常にそのモノと一緒にあるはずなんですね。
繰り返せば、先ほど、僕は身の回りにあるものは芸術になり得るという立場をとると言いました。であれば、この自分の身体もまた、芸術の素材や道具になり得ると考えない理由はありません。もっとも、モノと違って自分の体は自分で全てコントロール可能な対象であり、先ほど言ったような言葉の割れ目のようなものがあるようには思えない、と言う反論もあるかもしれません。
しかし、その自分の身体は、先ほど言ったように細胞が周期で入れ替わってしまうような対象です。それにスポーツをする人は誰しも気づくように、自分の身体は、自分が思ったように動く対象ではありません。皆が大谷翔平のように身体を動かせるわけではないですよね。だからこそ、あれほどホームランを打つ人は稀なわけです。それを考えれば、自分の身体というものは、確かに半分ぐらいは自分自身と見做せる身体だけれども、しかしもう半分は言葉やモノと同じように、自分ならざる何か、自らと異なる何かへとずれていってしまうような割れ目を含んでいるものとして捉えられる対象ではないでしょうか。このように考えると、やはり無視し得ないほどの近さにある自分の身体を作品の素材となり得るものの範囲に含めた上で、制作というもののあり方を考えた方が良いのかなと。このように考えているところです。
ちょっと最後に、余談として、これが言葉として残ってしまうことへの警戒感が薄れてしまった発言をしてみます(笑)。今回、床に立体の作品を展示しているだけでなく、その立体を僕が自分の身体に着けている写真の作品<ダイム・ア・ダンス>を展示しています。そこには文字通り僕の身体が写っていますね。さて、そうすると床に置いてある立体の作品について、「どこまでが立体の作品に含まれるんだろうか?」という話になるんじゃないかと思っているんです。写真の中では「立体物が手や足、膝、肘といった部分に装着されている」ように見えるのではないかと思うわけですが、しかしその手や足は、先ほどまでの話で言えば、台座ではなく作品の素材の一つなのかもしれませんよね。だからあの写真は足に作品をくっつけているのではなく、作品の一部の立体部分に、これもまた作品の一部である足を組み合わせていると考えることができる。そしてその組み合わせ方も一通りだけではないのかもしれないし、身体と立体物の距離もさまざまな可能性があるのかもしれません。ではそういった立体物が存在する空間に、鑑賞者の身体があるということをどう考えれば良いでしょうか。
これ以上はあまり話すべきではないように思いますが、作品名になっている「ダンス」、特にペアのダンスは示唆的かもしれませんね。毎回異なる身体を持ったペアが、同じダンスを踊る。ダンスを私たちの異なる体が作り出す関係なのだとすると、逆に、そのような異なる体たちをそのような関係性のもとにおくものこそをダンスと呼ぶのだ、ともいうこともまた可能かもしれません。
インタビュー収録を終始見守っていたアメリカン・バッファローのぬいぐるみ、アグネス。カナダ出身のアーティスト、アグネス・マーティンから命名。金井さんの奥様がアメリカでマーティンのリサーチをしていた際、マーティン最期の制作スタジオの建物がおもちゃ屋さんとして現存しており、そこを訪問した際に出会ったとのこと。(写真提供:ホテル アンテルーム 京都)
今回の即興制作&インタビューを通して、異なる意味を持つモノ同士をカップリングさせ、意味が抜け落ちる「割れ目」を探していくことから何かを立ち上げようとする姿勢は、金井さんの制作とのつながりを感じることが出来ました。展覧会を考察する上でのキーワードでもあった「時間」。展覧会とホテルとの共通点から考えていくことで、空間としての役割だけでなく、ホテルの持つ特殊な環境が有機的な繋がりをつくる可能性も秘めていると実感しました。
文:上田 聖子(MISENOMA)
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