世界へ向け日本の新たな才能を発掘することを目的に2013年に設立された、アートフォトのアワード「JAPAN PHOTO AWARD」(以下、JPA)。今年で11回目を迎えるJPAは、海外のアーティストへも間口を拡げ、世界の第一線で活躍するギャラリスト、キュレーター、エディターである審査員から選出された受賞者の作品を、京都のアートホテル「ホテル アンテルーム 京都」(以下、アンテルーム)にてグループ展の形式で紹介しています。
今回のインタビューは、アンテルームを会場に、JPA vol.11の受賞者のおひとりでもある苅部太郎さんをゲストにお迎えし、お話を伺いました。
苅部太郎(かりべ・たろう)
1988年愛知生まれ、東京在住のアーティスト/写真家。
一般システム理論の研究をきっかけに様々なパターン構造に関心を持ち、心理学・感染症予防・金融・ITの領域を横断した後に写真表現を始めた。
今日的な現実の複雑な様相を、メディア技術や知覚システムの根源に立ち戻って再把握する。
「JAPAN PHOTO AWARD EXHIBITION + INTUITION 2024」の会場風景。ホテルに併設するGALLERY 9.5では、JPAの受賞者4名の作品で構成。京都市内で開催されたKYOTOGRAPHIE l 京都国際写真展のフリンジ企画「KG+」のサテライト会場でもある。
(写真提供:JAPAN PHOTO AWARD)
「JAPAN PHOTO AWARD EXHIBITION + INTUITION 2024」の会場風景。海外アーティストの受賞作品も展示されている。(写真提供:JAPAN PHOTO AWARD)
「JAPAN PHOTO AWARD EXHIBITION + INTUITION 2024」の会場風景。JPA vol.11の受賞者の他、受賞には至らなかったものの、応募者のなかからこれからの活躍が期待出来るアーティストを紹介している。(写真提供:JAPAN PHOTO AWARD)
目次
AIにグリッチを生じさせ、システムの気をそらす
作品は山、鑑賞者の登り方を工夫する
偶然の出会いが乱数を大きくする
技術との関わりかた
AIにグリッチを生じさせ、システムの気をそらす
-今回京都市内の2会場で同時期に開催されていますが、この時期の京都の印象について教えてください。
苅部:ちょうど桜が散り始めていますね。散り始めの頃が1番好きなので、いいタイミングに訪れました。 外国人の観光客が増えましたね。バスに乗り切れないぐらい。東京もすごく観光客が増えていますが、京都の方が密度が高い気がします。訪れるたびに新しいホテルを見かけるような気がしています。
-KYOTOGRAPHIEの展示はどこか行かれましたか?
苅部:色々まわりましたが、最も印象的だったのはヴィヴィアン・サッセンでした。京都新聞の地下の印刷工場の跡地でやられていて。街を歩くと、KG+の黄色い旗だったり、タクシーの運転手さんと写真祭やってるよね、という話もしました。
-今回は、関西日仏学館(京都)とアンテルームの2会場での展示で、同じシリーズの作品を発表されていますね。
苅部:<あの海に見える岩を、弓で射よ>という作品を2カ所で展開しています。機械学習されたAIが組み込まれている風景画像生成システムを使っています。2022年に始めたシリーズです。幻を見せる、とかAIのバイアスを引き出す、というのがテーマです。
屋久島国際写真祭 x ヴィラ九条山コラボレーション『post』の会場風景。日本とフランスの4名のアーティストによるグループ展。左手に《あの海に見える岩を、弓で射よ | Aim an Arrow at the Rock in the Ocean》が展示されている。
-初期の作品はフォトモザイクのような印象でしたが、この頃から作品がどう発展していったのでしょうか。
苅部:2022年からAIを使い始めていますが、そのAIに食べさせる・インプットする画像があります。アムステルダム、パリ、東京で巡回展をした<INCIDENTS>という前作です。これはテレビの液晶画面を撮っています。テレビを接触不良にして、その時に流れているドラマとか、コマーシャルとかニュースの画面をグリッチ・ノイズだらけにして、その画面をカメラでストレートに撮ったあと、その写真を回転とトリミングをすることで、全く別の抽象的な何かに見せる、ということをしていました。そのシリーズは2018年からやっていまして、元々何か目の前の現実を映したものが、メディアを通してほぼリアルタイムで伝達されているのが現代的なメディア環境ですが、そこに踊るイメージをずらす、グリッチ・ノイズを生じさせながら形を変える、そして見る人に誤読させるということを試しながら考えていました。自分が細工した抽象的な絵を見る鑑賞者は、元々全く別の何かだったものを、自分自身に引きつけて、バイアスを投影しながら見てしまうわけです。それはある種、抽象絵画や、複雑で分かりづらい対象を見る時の私たちの頭の中で生起していることなんです。そのような、人間の頭の中で起きていることを、機械にシミュレーションさせたのが今展示している<あの海に見える岩に、弓を射よ>というシリーズです。元々AIの構造は人間の脳神経ネットワーク構造を模して設計されますから、似たような振る舞いをする。そこから類推してみています。
- AIは苅部さん自身の作品と外部から摂取した画像を蓄積しながら、学習をしてるのですか?
苅部:Adobe SenseiというアメリカのAdobe社が作っているAIを使ってるんですけども、Adobe社が当然AIに学習させていますね。不定期的にバージョンアップがされて、どんどん成長しています。 そういった意味でも学習しているし、私という個人のユーザーとのやり取りでも学習して、 より自分に最適化されているようです。色々なソフトやWEBサービスにはAIが搭載されていて、アルゴリズムが自分の好みを学習しています。たとえば、この画像を長く表示しているから、この画像が好きなんだろうとか、この画像を書き出したから、こういう絵柄が好まれているんだろうと、好みや興味を把握してくるんですね。そういう2つの段階で学習がされています。その学習やレコメンドをいかに撹乱するかがすごく難しいと思っています。アルゴリズムに捉えられたくない、という気持ちがあります。日常生活でも、たとえばAmazonのレコメンドとかもそうですが、便利ではあるが、自分の中の乱数が足りないというか、自分の人生とか未来が先細っている感じがします。ここには抗っていきたいと思って、わざと自分が好きじゃない画像を何度も保存したりして、AIが僕がそれを好きなんだって思うように仕向けるんです。そうすると、自分の予期しない方向にどんどん連鎖反応が起きていて、ズレが生じていく。
メディアから流れてくる映像や画像を誤認識させ、AIにグリッチを生じさせるプロジェクト 《INCIDENTS》( 写真提供:苅部太郎)
-苅部さんは、ドキュメンタリーフォトグラファーとしてキャリアをスタートされたとお聞きしましたが、当初の活動について教えてください。
苅部:写真を始めた初期は、報道写真やドキュメンタリー写真を撮っていました。いわゆるフォトジャーナリストとして、 災害地などに行って写真を撮り、写真と短い記事をメディアで配信する仕事をしていました。基本的に、その時にリアルタイムで起きている社会的な出来事を取材して伝達するということですね。社会的にインパクトのあるものに興味があって。教科書に刻まれるような事件とか事故とか、人類史に影響するような社会問題を扱ってきました。その中でも1番興味のあった領域が、 テクノロジーと人間の関係です。例えば、等身大の女性型の人形、いわゆる「ラブドール」と暮らしている男性のドキュメンタリーとか、aiboと暮らしている人、二次元キャラクターと結婚した人など。他には介護施設に導入された赤ちゃんロボットと利用者さんとの関係性とか。 自然物ではなくて、人の手が作ったテクノロジーで出来た「フィギュア」と関係を結んでる人たちのことに興味がありました。
ロボティクスとか人工知能とかヒューマノイドとか。 もともとSFが好きなので。映画も小説も。
ラブドールと暮らす男性をドキュメンタリー形式で追うプロジェクト 《沙織 / Saori》 (写真提供:苅部太郎)
-ちなみに好きなSF作品を挙げるとしたら?
苅部:伊藤 計劃さんという小説家の『ハーモニー』が思い浮かびます。舞台となる近未来では科学技術がものすごく発達していて、人間とテクノロジーがほとんど溶け合って、そのことの功罪が問われている。今の自分たちの現実もそういった方向に向かっている、ということを考える上で、示唆に富んでいるものです。
-技術と美術の関係は、チューブ絵の具の発明からキャンバスを外へ持ち出した印象派の誕生にも例えられますね。苅部さんにとって、テクノロジーはどのような存在ですか?
苅部:花でしょうか。テクノロジーを花として考えると、自分はミツバチ。 ミツバチって、花と花の間と飛び回って受粉してまわってますよね。でもミツバチ自体はそのことを知らないというか、 ミツバチは花の蜜を利用してるだけだと多分思っている。でも引いた視点で見ると、花の成長を手伝っているのがミツバチで使役されている。そんな関係性のイメージです。僕たち人間はテクノロジーに対するユーザーであり、また同時にテクノロジーのために生きている。テクノロジーは花のようなエコシステム。僕はそのエコシステムの中の個であり、同時に全体を構成してる一部というイメージでしょうか。
-面白い視点ですね。
苅部:そういったイメージをここ何年かずっと持っています。技術とかテクノロジーって、石から始まってると思うんです。ハンドアックス(握斧)ですね。それが原初のテクノロジーで、身体の拡張。爪とか、拳の拡張で、 生身の人体では加工できないものも、その道具のおかげで加工できるようになった。それが、ものすごく長い時間が経って、今、スマートフォンとか人工知能とか、宇宙船とか、そういったものにまで進化している。その進化する様が、まるで生き物みたいに僕には思えます。サイバーカルチャーの論客のケヴィン・ケリーという人が「テクニウム」と呼んだ生態系のようなものですね。テクノロジーも人類とは別の次元で、テクノロジーそのものとして進化・成長している。独自のエコシステムを持っている、という考え方。
- テクノロジー自体も自立する存在で、1つの個であるという捉え方でしょうか?
苅部:それでいて、他者である。今、その他者がものすごく急速に繋がり合って、インターネットとか IOTとかもそうなんですけど、ものとものが急速に結びついていますね。ジェームズ・ブライドルというアーティストが「プラネタリーインテリジェンス」って呼んでいる。地球を包み込む、テクノロジーの知能のメッシュ。地球自体が1つの脳みそみたいになるイメージなんです。それをケヴィン・ケリーは「ホロス」と呼んだ。テクノロジーと人間が一緒に合わさって、構成する、ものすごく複雑で大規模なシステム。それは、さっき僕が言った花のエコシステムと似ています。システムと自分がどういう関係性を持っていて、そのシステム自体が何を見てるのかっていうのが、ものすごく興味あることです。そのシステムは主観的世界を持ってると思うんです。、その主観的世界が見ているビジョンを 切り取りたい、というのが自分の欲望です。
- 地球というマクロと花のミクロ、どちらの視点でも成立するとすると、日常の身近なエコシステムは何がありますか?
苅部:身近なテクノロジーでいうと、Google検索とか、スマホでしょうか。テクノロジーとのインターフェイスとして、1番強い。例えばSNSのフィードとかスクロールしてますけど、その利用状況は当然学習されています。個人が利用しているスマホが常に学習していて、それが何十億人の規模で行われている。 別の例を挙げると、何かウェブページを使うときに、煙突を選びなさいみたいなやつ。このテストの目的って何か、ご存知ですか?
- セキュリティの機能だと思っていました!
苅部:その通り、まずそのページにアクセスする人が生身の人間であるかをまず判定してるんです。反応速度とかで。ロボットではないことを証明するという、セキュリティ機能がひとつで、もう1つはあれでAIを育てている。ヒト・シュタイエルが言っていましたが、人間の認識や判断を学習させている。僕たちは知らず知らずのうちに、マシーンにこれが階段です、これが横断歩道ですっていうのを教え込んでいるんです。マシンで判別できない、そういう人間にしか判別できないニュアンスっていうものがまだたくさんあって、それを今世界中でやっている。これもケヴィン・ケリーの本に書いてあったんですが、Googleも設立した初期から、あれはAIを育てるっていう目標を持った会社だった。単なる検索会社ではなく、検索を通して新たな知能を育てる、ということを目指した企業体であって、そういう意味で、自分たちは知らず知らずのうちに機械の実を育てているんです。
- では、エコシステムの話になぞらえると、Google自体が花であり我々がミツバチでしょうか?
苅部:そうですね。コマーシャリズムにはすごく問題があると思うんですけど、ある種の共生関係なんだなと。機械と自分たちが、自分たちの身体を使って与え合っている。
作品は山、鑑賞者の登り方を工夫する
- テクノロジーから享受する知識と引き換えに、私たちが抱いている裏側を教えてくれる媒体でもあると感じます。苅部さんが鑑賞者に対して意識していることは?
苅部:自分がやってるのはコンセプチュアルアートなので、今回のアンテルームと関西日仏学館での展示でいうと、写真プリントを展示しているんですが、その写真プリントに描かれてる絵だけが全てではないです。コンセプトとか意味とか、思想とか、問いかけみたいなものもとても重要です。なるべく複雑な構造体を作ろうとしている。人によって見えるものとか考えることって全く違うと思うんですけれども、鑑賞者によって 登り方を変えられるような作品を作ろうとはしてます。一つの山って、いろんなルートがありますよね。眺めを楽しみながらのんびり歩けるルート、自分の身体性を試されるような急峻なルート。複数のルートを作ることを意識して作品を作ります。多面的な問いかけに対して楽しんでもらえるような。自分がやってるのは、一方的なメッセージ伝達ではないと思います。鑑賞者とのコール&レスポンスが大切です。
- キャリア初期のミャンマーでの難民のプロジェクト《Letters To You》も、写真とメディアの特性をすごく意識した作品だと感じました。
苅部:実はインターネットやSNSをテーマにした作品でした。作品について簡単に説明すると、ロヒンギャ難民というミャンマーで迫害されたムスリムがいます。バングラデシュに逃げて、そこで難民キャンプを形成したんですが、僕はその難民キャンプに行って、 難民のポートレートを撮ろうと思ったんです。なぜかというと、その難民の家族が行方不明になってしまったケースが多くて、 迫害のさなかで散り散りになったり、警察に不当逮捕されたり、いろんなケースがあります。その行方不明の家族を探すためのプロジェクトです。それまで自分がやっていたジャーナリズムっていうのは、そういう当事者 の話を聞いて、写真を撮らせてもらって、そのストーリーを届ける、という仕事だったわけですけど、なんだか、ずいぶん一方向的というか、少しその当事者 のことを消費している感覚があったんですね。そういう悲しい話を遠くにいる私たちは見聞きして、 心動かされるわけですけど、そうやって心動かされて終わりになってしまってやしないか。当事者その人たちに介入できる余地がないなと思っていました。なので、そういう人たちのことを知った自分たち間接的な目撃者が、直接介入できる構造を作ろうとしました。ポートレートをとってウェブに載せて、それをSNSでシェアしてもらう。SNSシェアなんて親指1つでできると思うんですけど、でも、その親指1つのシェアもする、しないって判断が生じますね。重みもやっぱりありますし、親指1つの距離感でその当事者と繋がってしまっている時代で、そのことを自分たちは全く意識していないということを示そうとしました。「6次の隔たり」ってご存知ですか? あくまでアメリカ国内の範疇の理論なんですけど、アメリカ国内で人間関係って 6人介したら誰とでも繋がる、という理論なんです。マーク・ザッカーバーグが言ったのは、Facebookが出来て、それは3.5人に縮んだっていうんです。 SNSによって、人と人との距離がものすごく近くなったと知って、 衝撃的でした。その3.5次に短縮されたSNSの力を使おうとしたのが、『Letters To You』です。自分はこの事実に可能性も感じるし、すごく怖くて、責任を背負ってる状態だと当時は考えていました。
ロヒンギャ難民の行方不明になった家族を探す為、インターネットの力を活用したプロジェクト《Letters to You》 (写真提供:苅部太郎)
- 苅部さんが報道写真家として身につけられた身体感覚のなかで、日常で意識することはありますか?
苅部:スマホとかで見るニュース写真とかの視覚情報のグラウンド・ゼロを撮ってきたので、手の中に入ってくる情報の出所の感覚の身体性を持っています。なので、自分が例えば何かの事件の写真を見た時に、その現場にいる状態を想像できる。匂いとか、肌感覚とか。写真って表象物じゃないですか。現実のリプリゼンテーションなんですけど、 出来事と表象の答え合わせをずっとしてきた感じです。 自分の肉眼が見て、それを写真に撮って、それがメディアに載せられるっていう流れがあって。情報はその流れを漂ううちに、差とか違いが出てくるんですけど、どういう違いが生まれるかとか、どういうところでは変わらないのとか、考えています。ここ何年かは、現代の現実検討について考えている。 現代人がどういう情報をもとに現実感を構成するか。昔の人って、今みたいに写真もなかったから絵を使っていたと思うんですけど、そういったメディアを使って、遠くで起きた出来事とか、 自分の肉眼では直接見えないものを間接的に見るようになってきた。現代ではそういう間接的なものばかりというか、自分の肉眼で見ていること以上のことを経験してる状態です。
- 事件や事故、災害などの情報は報道から知ることの方が多いですが、日常的に2次的に作られた情報を常に受け取ってるなっていう印象はあります。
苅部:心理学的には、その2次的な情報も一時的な情報も、脳は区別できないらしいんです。「メディアの等式」という理論がありますね。僕たちの脳は穴居人の頃からスペックが変わっていない。そういったメディア環境と脳の齟齬が色んな問題を引き起こしている。
- 脳科学の研究では、そもそも目で見てるものっていうのがすごく曖昧で、実は脳が知覚してるという説がありますね。目で見る視覚重視型と、聴くことを重視する聴覚重視型と、身体で感じる体感覚重視型とで分かれているそうです。
苅部:人によってほんとに宇宙が違うというか、それぞれで感じる世界があるのかなというのは、おっしゃる通りだと思います。(今関心があることは)今のその現代人の現実は、間接的な情報でほぼ占められてるということを前提にした時に、その情報の真偽性はものすごい大事になりますよね。現代はフェイク情報に溢れていますけど、フェイク情報だらけの世の中で、どんどんそれぞれの世界が離れて行っている感覚があります。
- 苅部さんのステートメントにも登場するギリシャ神話のアルテミスと巨人オリオンの説話も、二人の恋仲に嫉妬した兄のアポロンが誤情報を与えたことで起こった悲劇ですしね。
苅部:世の中にアポロン的なものって、ものすごくありますね。SNSの中とか。この一連の<INCIDENTS>のシリーズを始めた時代って、ちょうどトランプ政権だったんですね。いわゆるポスト・トゥルースっていうことが言われ始めた時期で、間接的な情報が現代人の土台になっているのに、その土台が崩れた、ということに衝撃を受けました。 それは個人的な創作の原体験でした。でもきっとずっと昔からそうだったのではないか?そのことが明るみに出てしまった。たとえば歴史とかはもともと曖昧なものだと思います。勝者が書くし、改ざんもあるし、人によって観点も変わってくれば、意味も変わるし。文章はコピーされて後世に残っていくので、そのコピー&エラーが必ず生じる。<あの海に見える岩に、弓を射よ>でいえば、AIという他者が、AI自身のバイアスを元に、メイクセンスした風景写真を作る、という作品なんですが、自分とは全く違う環世界の中にいる人が、同じものを見た時にどう認識が枝分かれしていくのかを探求しています。
《あの海に見える岩を、弓で射よ | Aim an Arrow at the Rock in the Ocean》 (写真提供:苅部太郎)
《あの海に見える岩を、弓で射よ | Aim an Arrow at the Rock in the Ocean》 (写真提供:苅部太郎)
- 非常に興味深いですね。同時に、今まで真実だと思っていたことが、その裏側を提示されることで転倒していくっていうような怖さも孕んでいますね。
苅部:世界は見た通りのものでは全くない、ということですね。裏側を提示する、暴く、というのはアートの基本的な機能だと思います。自分がこう、シミュレーションの檻の中に生きていたんだなと気づかせてしまう。
- アポロンのような誤認識に気づいてしまったとき、ただの誤情報を美的な行為に消化するとしたら、見立てることとも繋がる気がします。
苅部:世界は見立てに溢れていますね。(辛くて)最近はあんまりもうSNSとか見られないんですけど。悪意のある見立てもたくさんあるし。無邪気な見立てもある。見立てにもいろんな種類があるんだなっていうことを日々学んでいます。自分が今、見立てている、ということをメタ認知できるってのは、大事なことかもしれません。
- それは、日常的な行為として?それとも制作においてですか?
苅部:両方ですね。メタ認知すると世界って全然違って見えるんじゃないでしょうか。
偶然の出会いが乱数を大きくする
- 状況を俯瞰してみる視点ですね。ホテルのような空間は、ある種日常の延長にあるメタ的なスイッチがある非日常空間だと思います。そのなかにアートが入り込むことで拡がる可能性はあると思いますか?
苅部:可能性はあると思います。旅行とか、色んなホテルに泊まることが好きです。なぜかというと、それで環境が変わって、自分の中で乱数が発生するから。あと、ムードが変わったりとか。いつもとは違う検索ワードでなにか調べてみるような感覚です。ホテルで本を読むのとか好きなんですけど、普段の日常モードの延長では読まない本をそこに持っていったりとか。ホテルにも本が置いてあることがあるじゃないですか。その街でしか届けられない新聞を読んだりとか、そういうことをして自分の中を掻き混ぜるっていうのが好きです。例えばこのアンテルームさんの庭は京都の地形をコピーしていますか?そう意識すると、急に京都という土地のサイズが変わって見えるような。
- 美術館やギャラリーのような場所とホテルでは、訪れる目的が違いますね。アートとの出会いを乱数に例えると、予期していない偶発的な出会いの方がその乱数は大きくなると思いますか?
苅部:美術館ではない場所で見ると、全然ライティングとかも違うし、鑑賞距離も全く違う目線で作品を体験することになります。同じ作家の同じシリーズだったとしても、見え方って変わってくるので、作家としても(乱数を)かき乱されます。もちろん、予期してない、例えば、ローカルなアーティストの作品があったとしたら、土地性も知ることができますね。
- ホテルにおけるアートの可能性は、その乱数をいかに大きくしていくかを意識することが、1つのポイントですね。
苅部:自分だったら、そういうことを求めてしまう。私は視覚芸術をやってるので特にそうですが、自分が見ている風景に強く影響されます。自分の中の何か新しい部分を喚起するようなものがあると、貴重な機会だなと思います。乱数性のリズム感も大事な気がします。全部、全くわからないとか、全部新しい作品だと入り込めない感じがして。ちょっとこう馴染みのある「これ知ってる!」みたいなものが リズムとして入っていると、見る人もうまく登れるのかなと思います。どの部分をどこまでストレッチできるかを考えると、アートの鑑賞体験としても豊かになると思います。
技術との関わりかた
- 技術の視点から考えると、50年かかるものが何分の1の時間で達成できてしまう時代に、表舞台にいた人が一線ではなくなることもありますよね。今アーティストが担うべき役割についてはどう捉えていますか?
苅部:技術は芸術家が担ってきた役割を一部代替する。じゃあ、もうそこは技術にお任せしていいと思います。だから、人間にしかできないことを、その技術を前提にして、掘り続けていく。
- 人類は天敵から自分の身を守るとか、生命を残していくために道具を発明し、技術に助けられてきたと思います。アーティストの役割は、そんな技術から思考へのシフトなんでしょうか?
苅部:そうですね。思考すること。
- 技術との共存もすごく大事なテーマだと思います。
苅部:技術とうまく共生しつつ、人間にしか作れない想像世界を作っていく。時代的にもやっぱりテクノロジーにチャレンジされてる世代だと思います。絶望を感じる瞬間もある。テクノロジーには畏怖みたいなものを感じています。怖いですけど、テクノロジーに負けるほど多分人類はやわじゃないので、大丈夫なんじゃないかなと、楽観的に考えています。
-では、AIのような技術の発達で何かが奪われるという恐怖ではなく、時代とともに自身も仕事も変化させていくことが重要だと。
苅部:仕事が変化していくのは避けられないと思いますし、生存して進化していくには適応するしかない。それが自然の厳しい法則ですね。テクノロジーも良い影響、悪い影響両面ある中で、いかにその状況にうまく適応していくか、ということに集中した方がいいかなと思うんです。たとえばメガネもテクノロジーですね。眼鏡によって目の悪い人もよく見ることができる。テクノロジーもメガネで、ものをよく見ることもできるし、認識できるものが増える。悪影響にも気を配りつつ、テクノロジーを使って、どこまで遠くを見られるのか、ということに目を向けていきたいです。
苅部太郎さん。アンテルームバーにて。
今回のインタビューを通して、日常的に目にする情報や、知らず知らず目の当たりにしていること、摂取してる情報を、苅部さんは、別の視点から見る投げかけをされていると感じました。
それは、写真という媒体を使ってその時に起こった出来事を記録して伝えるフォトジャーナリズムの姿勢でもあり、その裏側にある構造を透かして見せるような姿勢でもあると思います。
いかに、予期せぬところにアートのフックを仕掛けて、鑑賞者の体験を豊かにするのか。美術鑑賞を山登りと捉えると、ホテルは山小屋のような場所でもあるとも感じます。山への入口をどう作るか、あるいは登り慣れている人が楽しめる工夫を、これからも考え続けていきたいと思いました。
文:上田 聖子(MISENOMA)
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